島原大変肥後迷惑の伝承碑を巡り、地域住民の方に聞き取りを行いました。
島原大変 肥後迷惑
今からおよそ230年前の寛政4年(1792年)に、日本で最大級の火山災害が起きました。
雲仙普賢岳の噴火、地震、そして眉山の崩落は、島原城下を飲み込み、大津波を起こして対岸の肥後・天草にも押し寄せました。死者は1万5千人にも及ぶこの未曽有の災害は、“島原大変肥後迷惑”とよばれています。
有明海沿岸には、被災者や漂着した溺死者を供養した塔や災害伝承碑が多く建立され、災害の記録が残されています。
網津川眼鏡橋群
宇土市網津町には、赤い石として有名な「馬門石(まかどいし)」とよばれる石の産地があります。
この網津の集落を流れる網津川には、いくつもの橋が架かっていますが、これらの多くが石橋であり、馬門石が石材として用いられています。
実は、この石橋の建設には、島原大変肥後迷惑が関係しています。
元々木造の橋が架かっていたそうですが、島原大変の大津波で流されてしまいました。そこで、重くて丈夫な橋梁が必要となり、馬門石を用いた石橋がつくられたそうです。
これらの石橋を「網津川眼鏡橋群」とよび、上流から「猪伏橋」、「タカフネ橋」、「網引橋」、「馬立橋」、「馬門橋」、「本網津橋」と名前が付けられています。「本網津橋」はその後の水害による影響でなくなっていますが、その他の5基は現存しています。
そこで、今回は5基の馬門石でできた石橋を見て回りました。
猪伏橋
タカフネ橋
網引橋
馬立橋
馬門橋
馬門石
馬門地区に馬門石の石切り場跡を見に行きました。
大歳神社
馬門石石切り場
また、新しい道路がつくられている関係で、馬門石と阿蘇溶結凝灰岩の境界部を露頭で観察できました。
津波境石(宇城市三角町大田尾)
大田尾にある津波境石を歩いて探しました。
山道を登ること数分。標高26mほどの場所に津波境石を見つけることができました。
海から遠く、こんなにも高い場所に津波が来るなんて、なかなか想像がつきませんが、この石がまさにその証拠。
近隣の方々に当時の詳しいことについて聞き取りを行いましたが、大津波が来たことの他には詳しいことはわからないとのことでした。
今から232年も前のことなので無理はないと思いました。ただ、津波境石があることで、大津波到来のことは皆さんがご存じだったので、そういう意味では、このような石碑があるのはとても意味があると感じました。
すぐ下の海岸まで降りると、きれいな砂浜で遊ぶ人たちがたくさん。
この日は、PM2.5の影響で遠くの島原は白くかすんでいました。
宇土市網田地区
津波供養塔(宇土市戸口町)
溺死仮葬塔(宇土市下網田町)
網田マリンフェスタ
熊本の津波災害にまつわる伝承碑を多く訪ね、とても有意義な1日となりました。
先人たちの思いを現代の人たちに伝えていきたいです。